先生

「珊瑚!ノート集めて持ってきてください!よろしく!」
「えっ、ちょっと!」
突然の頼みごとに慌てて立ち上がった珊瑚の返事は聞かずに、用件だけパッと伝えて彼は教室を出て行ってしまった。そうなってしまえば真面目な性格の珊瑚が断りきれないのを知っていて、彼はあえて返事を聞かなかったのだ。なんて捻くれてる。
  
「彼」は珊瑚たちのクラスの社会科を受け持つ教師。若くて、イケメンで、おもしろい、と高校生の大好物御三家が揃っているだけあって生徒からの人気は計り知れない。しかもそれは女子生徒からだけでなく男子生徒にもだから馬鹿にできない。廊下で男子生徒とスポーツや下ネタのことを話して爆笑しているところなんか1日1回は見る光景だ。
だけど珊瑚はそんな彼のことがあまり好きではない。否、好きではないといえば語弊が生まれてしまう。そう得意ではないのだ。決して嫌いなんかじゃないのだけれど。
  
この苦手意識の原因というのも、こうして何かある度に雑用に指名してくることにある。別に普通に頼んでくれるならいくらでも頼まれるけれど、断る隙さえ与えてくれないのはどうにもムカつく。
今やこのクラスで社会科のノートを集めるのはすっかり珊瑚の係りとなってしまった。
  
「ほんっとにもーっ!」
ずっしり重たい30数名分のノートを抱えて社会科準備室へ向かうのも、よくよく考えてみれば1年生の頃から。クラス替えをしても日本史が世界史になっても近代史が公民になっても、彼はいつだって珊瑚を指名した。なにか気に障ることでもしただろうか、と思いながら気付けば珊瑚は3年生。もうすぐ卒業を迎える。
本当に毎度毎度、返事を聞くこともなく「ノート集めて持ってきてください!」と言い残していくのだ。
  
職員室より、社会科準備室にいることが多いのはもう3年間の経験でよく知っている。先生のくせに「先生だらけの職員室はあまり落ち着かない」らしい。確かに教師のくせにチャラチャラとピアスしてるような人なんから、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。
  
「せんせーっ、あけるよ」
 
「あー、はい、ありがとう。珊瑚」
 
少し鈍い反応に違和感を覚えた。だがそれも、いつもより机中に他のクラスや他学年のテストの回答用紙が積み上げられていることで合点がいく。テスト期間に加えノート提出、更に珊瑚たち3年生の進路もそろそろ決めなくてはならない頃。いくらふざけていたって疲れてて当然なのだ。
それなのに自分ときたら、ノートを運ぶくらいで何を怒っていたのか。申し訳なさで胸が締め付けられる。やってあげられることなんて、なにもないけれど。
「ねえ先生。手、疲れてない?」
常に働きっぱなしの右手はいつもペンかチョークを握っている。それって、すごく疲れることじゃないだろうか。以前、美容の専門学校志望の友人からハンドマッサージの練習台をさせられたことがある。見よう見まねではあるけれど、少しは楽になるはず。空いてるイスに座って半ば無理やり彼の右手を掴んだ。
 
 
文句も言わずにされるがまま、彼は「気持ちいよ」と受け入れてくれた。それについては結構なのだが、実はこれって大胆に手を握っているだけじゃないのかと気付いて珊瑚は急に気恥ずかしくなった。しかも1度そう意識してしまうと、何をしても恥ずかしくなってしまうのだから、タチが悪い。静かな空間が逆に珊瑚の神経を思いっきり逆撫でる。
 
もう限界だ!と立ち上がりかけたとき、唐突に彼が口を開いた。
「珊瑚なら、アイラブユーをどう訳しますか」
「え?」
一体なんの話だろうと首をかしげるが、唐突なそれに検討もつかない。アイラブユーの訳し方なんて、一般的に考えれば「愛してる」だとか「あなたが好き」とか、それくらいではないだろうか。
「夏目漱石は「月が綺麗ですね」と、訳したそうです」
「随分と遠まわしだね」
珊瑚の素直な感想に彼は「確かに」と小さく微笑んだあと、もう一度先ほどと同じことを聞いた。社会科教師のウンチクかと思えばそうではないようで、珊瑚は再び首をかしげる。アイラブユーの略し方なんて、そんな気の利いた言葉が言えるほど恋愛経験があるわけでもない。誰かにそれを伝えたいと思ったことすらない。
 
「わかんないよ。先生はどう訳すのさ」
「私なら、」
 
突然、ぎゅっと手を握り返されて珊瑚は手元に落としていた視線をあげた。またいつもの悪ふざけだろうと思ったけれど、そこにいたのは真面目な顔をした一人の男。真っ直ぐ珊瑚を射抜く瞳から、ふざけた様子は一つだって伝わらない。むしろ真剣さだけがひしひしと伝わってくる。
 
「ノート集めて持ってきて、と訳します」
 
見つめあったまま、少しだって視線を逸らすことなく彼はそう言った。理解するには数秒の時間を要したが、それは紛れもなくこの3年間で珊瑚が何度も何度も彼から言われてきた言葉。それを彼は「アイラブユー」の訳だと言った。出る答えはたった一つなのに、珊瑚にとってそれは何より難解な英文で、訳だ。
ただ、とにかくこの場から立ち去りたくて仕方ない。頬が火でもついたみたいに熱くなって、心臓が口から飛び出しそうな程に暴れてる。珊瑚は今になって自分が彼を苦手だった本当の理由を理解した。
 
「そ、そんなの、わ、ばか!先生のばか!」
 
 
大きな音を立てて、珊瑚は社会科準備室を鉄砲玉のように飛び出した。転びそうになっても誰かにぶつかりそうになっても心臓は暴れまわって収まらない。さっきのは何だ、何だっていうんだ。握られた手が発熱したように熱い。どうにもならなくて、ぎゅっと自分の手を握り締める。
  
深く息を吐いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
「早く卒業しないかなあ、珊瑚」
社会科準備室では、先ほどの珊瑚の様子を思い出した弥勒がニンマリと人の悪い笑みを浮かべていた。
卒業式まで、あと、9ヶ月。
 
 
 
 
-------------------------
  
15、6の頃から目をつけていたんですね。わかります。