| こんな想い知らなかった
初めて、その光景を見たときの衝撃を珊瑚は一生忘れないんじゃないかと思う。
その時まで珊瑚にとって弥勒は「兄」のような存在だった。いつだって優しくて頼りになり、さりげなく珊瑚をサポートしてくれる。受験のときだって弥勒は用事がなければ毎日勉強を見てくれたし、高校に合格したときも本当に喜んでくれた。物心ついたときから、そうやって傍にいることは当たり前で、これからもずっと変わらないんだろうとだと思っていた。だから自分の知らない弥勒がいるなんて、その時まで珊瑚は想像すらしていなかった。
「わ」
慌てて珊瑚は手で口元を覆った。咄嗟に発してしまった声があちらに聞こえていないだろうかと心配になったけれど、どうやら大丈夫らしい。気付かれていない。暴れまわる心臓は口から飛び出してしまいそうだ。
いつもと何も変わらない放課後のはずだった。もしも違うところを1つあげるなら、今日は久しぶりに弥勒と一緒に帰る約束をしていたことくらいだろう。おまけに委員会の仕事がかなり長引いてしまったくらい。
ただ本当にそれだけで、珊瑚にとっていつもと変わらない放課後になるはずだった。
といってもまだ入学してから数ヶ月。やっと慣れてきて、友だちも増えてきた。それに今のところ勉強も大丈夫。もし困ったことがあれば必ず弥勒が助けてくれるし、本当に楽しい高校生活だと思った。
1つ意外だったことと言えば、他の女の子たちから見て「弥勒先輩」が憧れの的だったこと。いつも一緒にいる珊瑚は羨ましがられるけれど、珊瑚自身にその認識はもちろんない。むしろ他の女の子たちがそんな風に思っていることがそもそも不思議だった。珊瑚にとって、弥勒は当たり前の存在だったから。
だけど、そんな他愛ない会話のなかで弥勒についての悪い噂を聞いた。そんなわけないじゃん!と笑い飛ばしたのはつい先日だった気がする。
「ねえ、んっ、や。こんなところで、」
弥勒が「待ってる」と、と言った教室から微かに漏れる女の甘い声。押し殺したそれが逆に卑猥さを引き立たせている気がした。もちろん珊瑚はこれまでの人生の中で、こんな場面に遭遇したことはない。そもそも、自分が経験したことすらない。思考回路の許容範囲を軽く跳び越す光景を処理できるわけもなく、咄嗟に教室のドアの影に身を隠した。
とはいえここは3年生のフロア。彼らは珊瑚たちよりもずっと大人だし、そういった行為をすることに何の問題もない。ここでするのはマズイんじゃないかと思うけれど、それも若気の至りだと言えば納得できる。それでも、ぐるぐると頭の中で考えが忙しく走り回る。そう、あの行為自体は頭で理解できる。珊瑚がこんなにもパニックを起こした原因は別。その女と甘ったるいキスを交わしながら、慣れた手付きでYシャツに手を滑り込ませている男こそが原因だ。
「もう、弥勒のえっち、」
「そうだよ」
弥勒、と呼ばれた彼は確かに珊瑚の知ってる「弥勒」と同じ姿で同じ形をしていた。いくらなんでも見間違えるわけもなく、微かに聞こえた声も当然ながら彼のものに違いない。だけれど、珊瑚にはどうしても別人のように思えた。盗み見た横顔は、いつもの弥勒とはまるで違う。声も仕草すら別人のようだ。
珊瑚の知っている弥勒は、あんなにも妖しく笑う男だっただろうか。いつも優しくニコニコ笑いながら珊瑚を見守ってくれていた。低く響く柔らかな声も、器用な指先も、そんな風に化けてしまうなんて。
「誰かに見られたらどうするの?」
「別に。構わないよ」
そうしてまた交わされるキス。同級生から聞いた噂は間違っていなかったんだと珊瑚は今知った。珊瑚の知らない、弥勒の噂。そんなこと絶対に有り得ないと思っていた。毎日あんなに近くにいたのに、どうして全く気付かなかったんだろう。どうしてか、裏切られたような気がして、ひどく胸が痛んだ。
弥勒先輩に彼女がいないのはね、と友人はそっと声を潜めていた。だが、それを聞いたところで珊瑚はまさかそんなわけないと思っていたし、今だって正直信じられない。だが確かに弥勒に特定の「彼女」が出来たことは今まで知る限りない。その理由がまさか、モテるのをいいことに女を遊び歩いている、だなんて。本当に信じたくもない。あんなに優しい人が、そんなこと出来るわけないじゃないか。
そんな訳ない、ありえない、と珊瑚は自分に何度も言い聞かせた。
「ねえ、他の子に見られたらヤキモチ妬かれちゃう。」
「いいじゃん。」
「ほんと弥勒ってチャラいね。」
「でも、おれのこと好きでしょう?」
最低。
もしかしたら、あの子が彼女なのかもしれない。そんな微かな希望は儚くも木っ端微塵に打ち砕かれた。これはもう間違いない。間違いなくあの噂が真実。じゃあ今まで一緒にいた弥勒はなんだったんだろうと恐ろしくなる。物心ついたときにはもう弥勒はいつも隣にいた。片時も離れたことなんてなかったし、それが「弥勒」という人間だと思っていた。
本当にいつから弥勒はこうだったのか。考えれば考えるほどキリがない。女と一緒のところなんて見たこともなかった。メールも電話も、今まで相手が女だったことなんてなかった。おっとりしてるから、女にもあんまり興味ないんだろうと思っていた。
「なにさ。バカ」
呟く声が弥勒に届くわけもない。虚しい。知ったつもりでなにも知らなかったなんて。
どうせ部屋はマンションの隣同士で、その気になればいつでもベランダ伝いに入ってこれる。それは幼い頃から変わらない2人だけの方法。だが、さすがに今日、いつものように不法侵入されては面倒だ。
珊瑚は少しも光が漏れないようにカーテンを引いて、しっかりと施錠した。なにを言われたって今日はもう会いたくない。約束をすっぽかされたのも当然だけど、あんな弥勒を見たあとにどんな顔をしたらいいのかさっぱりわからなかった。
ベットに寝転び、先ほどの光景を思い出す。相手の子はそりゃあ綺麗な子だった。購買や廊下でたまに見かけるけど、本当に憧れるほど綺麗な人。なのに、そんな人が弥勒に上手く扱われてしまうなんてどういうことだろう。他の人から見る弥勒は、そんなに違うんだろうか。
「珊瑚!」
急にドアが開いた。ノックもせず突然のそれに、珊瑚は思わずベットから飛び起きる。吃驚しすぎて心臓が口から飛び出しそうだ。1日に2回もこんなに吃驚するなんて、ほんと健康に悪そう。
それに、いつもは窓から突然入ってくるくせに、今日に限って真正面から入ってくるなんてタイミングがいいと言うか、悪いというか。珊瑚は改めてまじまじと弥勒を見つめた。
今日のことさえなければ、なんの疑問も持たないだろう。だって、不審そうな顔をしているものの、そこにいるのはいつもと変わらない弥勒。外見はまるで人畜無害。名前の通り菩薩様のようだ。
「で?なに?」
だが、そんなことで今日のことが忘れられるはずもない。この顔に騙されてはいけないのだと珊瑚は自分を律し、ツンとそっぽを向いた。弥勒はといえば、そんな珊瑚を気にする風もない。自然な動きと雰囲気のまま、珊瑚の隣へ座った。
「ごめんね今日。いつ帰ったの?」
「関係ないだろ」
隣に座られて、改めて珊瑚は気付く。弥勒からする香水の匂いだ。いつもは全く気にしないし、それどころか弥勒の匂いが好きだった。それなのに、どうしてだろう。今日はやけに鼻につく。それに、もしかしてこの甘い匂いは女の香水が移ってるだけなんじゃないだろうか。どうりで甘い筈だ。
そう考えるとかなり不快。隣同士に座るのも、いつもと変わらない行動のはずなんだけれど気に障る。
「怒ってる?ね、なんかおごるから。」
「いらない。もう帰って。」
突き放すと弥勒は不思議そうに首を傾げた。そりゃそうだ。弥勒には珊瑚の怒る理由なんて検討もつかない。すっぽかしたもなにも、ただすれ違ってしまっただけだと思っている。まさか見られていたとは夢にも思っていないだろう。
だが珊瑚はもう知っているんだ。あの時まるで知らない弥勒が確かにいた。
今ここにいる弥勒なんて、全くの嘘っぱち。
「珊瑚。そんなに怒んなくても、」
「もう、うるさい」
「おれだって、珊瑚がいつ帰ったかなんて、」
「じゃあ、今日一緒にいた子は誰?」
弥勒の優しい笑顔が一瞬で凍りついたように見えた。凍ってから数秒後、弥勒はベットに倒れこみ「あー」とか「うー」とか、意味のない唸り声をあげた。だけど、そうやって弥勒が寝転んで肌蹴たYシャツの隙間に見えたキスマーク。あれは一体だれにいつ付けられたものだろう。
考えればキリがない。弥勒を取り巻く女の子はきっと思うより多いのだろう。
やがて、弥勒は寝転んだまま小さな声で言った。
「見てたんだ?」
「うん。にぃに教室にいるって言ったから。」
「あんまり遅いから、お前は帰ったんだと思ってたよ。」
なるほど、それですれ違ったのか。互いに原因を理解したところで、解決するわけもない。もうなにを言っていいのかすらわからず、沈黙が続く。たが、その沈黙が物語るのは弥勒の肯定。そう、弥勒は実質的に認めたのだ。今日、女といたこと。見られたものになんの偽りもないこと。
珊瑚は胸が苦しくなった。あんなに慕っていたのに、実はまるで違う人間だったなんて。本当に器用にも程がある。のっそり起き上がった弥勒はもういつものように、優しく微笑んではいなかった。
「最悪。女をなんだと思ってるの」
「おれは応えるだけだよ。」
「最低」
最低で結構。と開き直った弥勒が憎たらしい。まるで反省する様子もなく、笑う弥勒はあの時見た弥勒とやはり同じ人物だった。本当に気に入らない。だいたい、どうやったらそんな風に人の心を玩ぶようなことが出来るんだろう。そんな人だったか?どんどん募ってくイライラを抑えて、珊瑚は拳を握った。
「にぃに最低だよ。人のこと好きになったことないんだろう。だからだ。」
と言いつつ、自分だってそんな本当に人を好きになったことなんてない。想像でしかない。けれどもしも珊瑚が同じ立場だとしても、そんな風には決してしない。苛立ちをそのままぶつけるような口調に少し申し訳ない気もしたけれど、かといって止められるものじゃない。
だが、弥勒はそれでも飄々とした表情のままだった。
「おれだって本当に好きな女くらいいるよ」
「じゃあどうして、」
「それは叶わないから、」
珊瑚は弥勒の言うことの意味がわからなかった。好きな女がいるならいいじゃないか。その子にぶつけてしまえばいいじゃないか。どうしてそれができないんだろう。
色恋の「い」すら知らない珊瑚にはどうしたって、弥勒の言う意味がわからない。
「にぃにの言うこと、わからない」
「わからなくていい」
ただ、その日からなにか吹っ切れたかのように、弥勒は変わった。
16歳。初夏の出来事だ。
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初めてのお題です。珊瑚に「にぃに」と呼ばせたいがための一品。2人の恋物語はお題と共に進んでいきます。どうしようかな。くっつけようかな。まだ未定です。
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