(ねえねえ先輩、あのね)
「え?なに?」
  
珊瑚にそう声を掛けられた気がして、弥勒は振り向いた。しかし少し後ろを歩いていた珊瑚が突然のことに驚いたのか少し目を丸くするだけ。なんだ、空耳か。そう納得して気を取り直したけれど、少し歩くとまた先程と同じ声が聞こえる。聞き間違えか?そう考えるけれど、珊瑚の声を間違える訳もない。
だから、もう一度弥勒は振り向く。
  
「なに?珊瑚、呼んだでしょ」
「呼んでないけど」
  
おかしい。そんな訳がない。弥勒は首を傾げた。
じゃあ悪戯か?だけど珊瑚は弥勒を手の平で転がすどころか、誘導尋問やドッキリさえ出来ない。こんな事を平然とできるほど器用ではない。それは弥勒自身が良く知っていることだ。そう考えてる間にも珊瑚は何度も何度も呼びかけてくる。先輩!と大きく呼びかけてくることもあれば小さな声で呼びかけてくることもある。
振り向いてみても、珊瑚はいよいよ不審者を見るような目をするだけだ。気でも狂ったのか、おれ。そうも思ったけれど、やはりそれは聞こえてくる。
  
(あーあ、おなかすいた)
  
呼びかけ以外で、初めての言葉。このチャンスを逃して堪るもんか、弥勒はもう一度振り向いて珊瑚を見つめた。不審者を見るような目なのが痛いけれど、それを気にしている場合でない。今は。
  
「珊瑚。おなかすいた?」
「え?うん。」
  
なるほど、弥勒は理解した。恐らく珊瑚の思考回路が飛んできてる。それが電波的なものなのか超能力的なものなのかは定かでないけれど、まあ間違いないだろう。
だが周りやすれ違う人間で、先程までの弥勒のように不審な動きをしていた者はいなかった。つまり、これが聞こえているのは弥勒1人だけということだ。弥勒にだけ届く珊瑚のテレパシー。
 
「なに食べたい?」
「えっと、」
 
(和食かなあ、でもパスタ。マックは嫌だし、どうしよう)
 
なるほど、おもしろい。
結局パスタとラーメンで悩みだした珊瑚のそれを聞きながら、弥勒は笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
珊瑚の独り言は相変わらず弥勒に届く。
普段ツンとしているくせに、考えていることは以外と、いや案の定というか実に乙女チックで愛らしい。弥勒が気になるのは例の呼びかけ。それは2人で一緒にいる間、何度も何度も聞こえてくる。そして必ず(やっぱり言えない)のまま終わる。その度に弥勒は「なにか言いたいことある?」と聞くのだけれど、珊瑚は相変わらず無いの一点張り。話は平行辺のまま。
  
弥勒にとって、珊瑚は最も扱いやすくて、最も扱いにくい女だ。
 
なんの経験もなくて初心で、分かり易い。今なにをして欲しいだとか手に取るように分かる。そこら辺にいる女たちとは違って、珊瑚には駆け引きがないのだ。いつだって真っ直ぐ弥勒に向かってくる。そう、これが遊びだったならきっと、なにを悩むこともなく弥勒は上手く珊瑚を扱い続けただろう。
 
しかし、これは遊びじゃない。
恋愛は惚れたもの負け、弥勒と珊瑚の場合、敗者は圧倒的に弥勒だ。珊瑚がなにを言おうと、弥勒自身それは揺るがないと思っている。そして、惚れているからこそ普通なら気にならないことが気になる。心の水面に石を投げ込むように、小さな波紋はやがて大きな波となる。
  
つまり、不安になる。
だが、弥勒はそれを今まで経験してこなかった。恋愛で苦しんだことなどない。だから対処の仕方がわからない。珊瑚が手探りで弥勒と付き合っているように、弥勒もまた手探りなのだ。そんなこと、絶対表には出さないけれど。
 
 
 
 
 
(言えない、やっぱり)
 
今日もまた、繰り返される珊瑚の葛藤。これは日々、弥勒の「自信」を蝕んだ。珊瑚に好かれているという絶対的な自信が、少しずつ少しずつ不安の波に侵食されてゆく。もしかして、その考えを何度振り払ってきただろうか。だけど珊瑚は言わない。言えないまま。
  
一体なにが言えないんだ、珊瑚。

「ほんとに何もない?言いたいこと」
「ないよ。最近どうしたの?」
 
(あーもうっ言えない、でも言わなきゃ)
 
 
そこまで悩んでも言えないことって、何だろう。どうしてこういう時、嫌な想像しかできないんだろう。あれ
だけ珊瑚を理解している自信があったのに、今、弥勒には珊瑚のことがなに1つ分らなかった。
  
「あのさ、珊瑚」
いつもは心地よいはずの珊瑚の視線が酷く痛い。
  
「もしかして、珊瑚、別れたい?」
  
もう、弥勒はそう聞かずにいられなかった。珊瑚は目を丸くして言葉も出ない様子だったけれど、もう弥勒にはそれしか思いつかないのだ。珊瑚は優しいから、きっと言い出せなかったんだろう。
ここ数日で弥勒には本当に、自信がなくなっていた。だって嫌われるのは簡単。弥勒はよく珊瑚にヤキモチを妬かせては怒らせたり悲しませたりしていた。そろそろ愛想を尽かされてもおかしくはない。
  
「別れたいんでしょ。いいよ。わかった。」
  
「え、ちょっと…、なにそれ…」
  
俯いたまま弥勒が言うと、珊瑚は慌てて弥勒の制服の裾を掴んだ。
おそろいにしようか、と一緒に選んだセーター。馬鹿みたいだねと笑いあった日々がもう懐かしい。そんな風にされたら縋ってしまう、弥勒は心が引きちぎれる思いだった。だけど、珊瑚が心を痛めるくらいなら、自分で終止符を打とう、そう思ったのだ。格好悪いけれど、その時は本気で弥勒はそう思った。
  
付き合ってから日は浅いけれど、それでも珊瑚からたくさんの幸せを貰った。それでいいじゃないか。
  
裾を握る珊瑚の手は、それほど力もいらず簡単に解けた。本音を言うならば、違うと泣いて欲しかった。けれどそれはどうやら弥勒の勝手な願いらしい。珊瑚は弥勒のこの切実な願いを叶えてはくれない。今にも泣き出したいのを、ぐっと堪えて弥勒はいつも通り笑った。珊瑚は俯いていたから、そんな風に気取って見せてもなんの意味もないけれど、それでもそうしていなければ自分が保てなかったからだ。
  
(どうして、なにそれ、なにそれ)
  
珊瑚の声が心に響く。
どうして、お前はそれを望んだんじゃないのか?だけど追求する勇気なんて、もうない。
  
 
 
 
(先輩の馬鹿、大っ嫌い。大っ嫌いだ。)
 
 
背中を向けると、最後に振り絞ったような、そんな言葉が聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ほんとに別れちゃった。
 
 
 
珊瑚と付き合う前まで、一体どうやって毎日過ごしていたんだろう。それがもう弥勒には思い出せなかった。それはそれで、すごく楽しかった筈だけれど、珊瑚をの時間を知っている今となってはそんなもの色褪せてしまった。
 
授業がまるで身に入らない。ぼんやり外を眺めながら、弥勒は珊瑚のことを考えていた。あの日から数日が経ったかれど、相変わらずテレパシーは飛んできた。時にそれは文句であったり、泣き言であったりする。どちらにしろ、聞くと弥勒の心は痛み、悲鳴をあげる。
別れたかったんじゃないのか、そう今更考えたところで答えが出る筈もない。答えが出たところで、もう手遅れなのだ。考えないように、今の弥勒に出来るのはそうやって逃げることだけ。キリがない。
  
「…、はー」
皮肉なくらい綺麗な青空だ。こんな風に晴れた日は2人で手を繋ぎながら、歩いて帰った。途中でアイスやポテトを買い食いしては笑いあっていた気がする。2人でいるだけで、とにかくいつだって楽しかった。そう思える、弥勒にとってたった一人の女だった。
  
また鼻の奥がツンと痛くなる。授業中のおめおめ泣き出すほど弱い男ではないけれど、その気になれば、まだいくらだって泣ける気がした。珊瑚も同じように泣いているんだろうか、弥勒はそんなことばかり考えてしまう自分が情けなく思えて仕方なかった。
  
未練、ありすぎ。
 
 
 
 
 
 
 
 
授業も終わり、友人らの誘いも適当な理由をつけて断る。励まそうとしてくれるのはよく分かるけれど、こんなときに合コン、ナンパ、なんてとてもじゃないけど出来ない。彼らはなにか誤解しているけれど、今の弥勒は、珊瑚以外の女に興味さえ沸かない。そんな状態なのだ。
だから、しばらく珊瑚を連想させるものから隔離してそっとしておいてほしい。そんな気分だった。
 
隔離して欲しい、そう思ったばかりだというのに、神様は残酷だ。
  
 
「…どしたの」
 
弥勒たち3年生の下駄箱の前に、珊瑚はいた。
確かに3年生は受験やらの関係であまり学校にいない。それでも1年生の珊瑚が、3年生の下駄箱前にいるっていうのは結構な勇気がいることだろう。強気な女子に一睨みくらいされても、なんら可笑しくない。
 
「えっと、その、」
弥勒を待っていた、それは確実であるはず。なのに珊瑚は困ったように視線をさ迷わせた。
  
別れてからまだ数日なのに、弥勒はもう何ヶ月も会っていないような感覚に陥った。少し、痩せたかな。目が赤いかな。それは弥勒の願望がそう見せているだけだろうか、それとも本当なのか。それすら、混乱した頭ではもうよくわからない。
ただ、とにかく珊瑚の突然の行動に弥勒の胸は締め付けられる。嬉しくて、苦しい。
 
 
 
(言わなきゃ)
 
その声は今までよりも力強い、意を決したような響を持っていた。
 
 
 
「先輩、今更、遅いかもしれないけど」
 
珊瑚の声は震えていた。弥勒は分からなくなる。どうしてそんなに珊瑚が泣きそうな顔をして、辛そうなのか。ただ自分まで釣られて泣きそうで、それを堪えるのに、とにかく必死だった。
初めてのおつかいじゃあるまいし、そう思ってしまうほど珊瑚は一生懸命だった。スカートの裾をぎゅっと握り締めて、泣くのを堪えながら必死になにかを告げようとしている。
 
見守っているお母さん、じゃないけれど、その姿だけで弥勒の胸はいっぱいになるのだ。
そして、珊瑚はようやっと真っ直ぐ弥勒を見つめた。大きな瞳にたまった涙が一粒落ちて、珊瑚の赤い頬を滑り落ちる。
 
 
(あたし、あたしは)
 
 
「先輩のことが、大好き」
 
 
 
弥勒は思わず自分の耳を疑った。
よく聞こえなかったのでもう一度、そう言いそうになるのを堪える。だって、流石にそれは無粋すぎる。耳を疑うもなにも、たぶん聞こえたことが全てで答えなんだろう。
 
「ごめん。別れてるのに」
 
俯いた珊瑚の目から、もう1粒涙が落ちた。今度は真っ直ぐに地面に落ちて染みを作った。それを眺めながら、弥勒は今すぐ数日前の自分をぶん殴ってやりたい気持ちになる。また泣かせてしまった。だけど、考えもしなかったのだ。珊瑚があれだけ言い渋っていたことが、まさか「大好き」の一言だったなんて。だって弥勒にとって、その言葉はなんの躊躇もなく簡単に使えるものだったから。
  
弥勒は初めて知った。「大好き」は、こんな風にたくさんの想いを込めて使わなければならない、神聖で大切な言葉であること。それを珊瑚に今、教えてもらった。だからこそ告げなくちゃいけない。弥勒はスカートを握ったままの珊瑚の小さな手を取り指を絡めた。

スカートは強く握りすぎて皺皺になっている。それに緊張したんだろう、珊瑚のいつも温かい指先はひんやりと冷たい。
その冷たい指先が、愛しい。
 
 
「おれも、大好きだよ」
  
全ての想いが伝わるように、と珊瑚を真っ直ぐ見つめながら告げた。
珊瑚は1度、くしゃりと子供みたいに表情を歪めて俯く。

「…なにさ」
「も1度、付き合ってくれる?」
 
強気な口調だったけれど、声が震えては意味がない。地面にいくつも涙が落ちては意味が無い。こんなに愛らしい珊瑚を、弥勒は抱きしめずにいられなかった。久しぶりに抱きしめた体はやっぱり、細くなっていた。弥勒が悩むよりも、珊瑚はきっと悩んだんだろう。
 
ただ想いを伝えたかっただけなのに、急に告げられた別れ。苦しかったんだろう。
  
それを想像するだけで弥勒は心が痛む。土下座して謝っても珊瑚があのとき感じた痛みが消えるわけがない。消えるわけがないからこそ、これから先ずっと死ぬまで大切にしようと心に誓った。詳しいことは後でたっぷり説明する。酷い誤解をしてしまったことも、ずっと珊瑚の考えが筒抜けだったことも、全てを包み隠さず話そう。
 
珊瑚の艶やかな髪を撫でながら、弥勒は鼻をすすった。
この可愛らしい人を失わずに済んで、本当によかった。本当に、よかった。
 
 
(大好き。大好き)
 
その時を最後に、珊瑚の声は弥勒に聞こえなくなった。それでいいと弥勒は思う。
 
    
   
   
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 お待たせいたしました。ご期待に沿えるかどうか心配ではありますが「声」逆バージョンです。
気に入っていただければ幸いです。リクエスト主さまに限りお持ち帰り頂けます。ステキなリクエストをありがとうございました。書いてて、楽しかったです。